『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』はパラレルワールドとして一定の評価を受けていいと思った。

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『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN END OF THE WORLD』ポスター ©2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 ©諫山創/講談社

以前世界観を変えた『進撃の巨人』実写版を鑑賞と題して実写版進撃の巨人の前編をなるべく肯定的にディスった感想を書かせていただきました。


ディスったとはいえ、書いた通り後編みてからじゃないと作品の評価は出来ないかなと思いディスりつつ私の肯定批判の立ち位置は明確にしないようにしていました。


先日鑑賞してきた感想をPostします。

実写版『進撃の巨人』の設定おさらい

『進撃の巨人』を実写化するに当たり2点の問題がありました。
  1. 原作はEU圏ドイツあたりが舞台で原作キャラクターの名前が日本人離れ
  2. 原作の文明は中世ヨーロッパからちょっと後ろあたりで舞台の景観や文化の再現性が困難

このような問題があるため、大ざっくりと以下の変更を施しました。

  1. 日本人離れしたキャラクター名を除外しオリジナルキャラクターを作成
  2. アジア圏、日本人がいそうな舞台になるべく荒廃した文化を示せる軍艦島を使用

まさに、パラレルワールド設定。ある種別物という前情報があったにも関わらず、前編はどうしても納得のいかない箇所が多々ありました。単純に原作の冒涜を犯したというのが当初の所感でした。しかしながら、後編を鑑賞して自分が持っている感情にズレが生じている事がわかりました。

原作ありきに引っ張られる人の思考回路にハマりました

前編を鑑賞した時の所感、それはどうしても原作との対比が多くそのギャップに耐えられない事がよういんだったと感じました。


例えばリヴァイ兵長とシキシマは明らかにシキシマがリヴァイを意識させる立ち居振る舞いを行っていた。その上でシキシマはどこか気持ち悪さがプラスされていて正直リヴァイを冒涜しているのではないかと思いました。またジャンの性格を原作半分オリジナル半分というような中途半端なキャラクター設定にしていて気分が悪かったです。このように原作ありきの作品というのはどうしても対比してしまいます。これは致し方のないことだと思いながら対比したが故にどっちの作品が良い、悪いという思考に陥ってしまうのでした。

パラレルワールドの設定が生きた後編の安心感?

そんななか後編は当たり前ですが物語をすすめる事に注力し、そのパラレルワールドの設定を遺憾なく発揮していました。これにより原作との対比はなくなっていました。


近代文化の荒廃を舞台にした軍艦島らしい構成、各キャラクターが持つ特異性、とくに前半のモブキャラオリジナルキャラクターと違い後編のオリジナルキャラクターはそれ相応の役割というのが多く物語のパズルとしてもなかなかに引き込まれました。

惜しむらくはジャンの扱いが後編も雑だったということでしょうか・・・。原作ではなかなかに成長を垣間見せてくれるキャラクターであり、原作者も当初はジャンを主役にしたいとまで言っていたのに、後編もジャンは残念な立ち位置は拭えませんでした(苦笑)

後編を鑑賞後に実写版『進撃の巨人』の題材は1984年というイギリスのジョージオーウェルという作家が書いたSF小説の要素がふんだんに盛り込まれているように感じました。


あの荒廃した世界やその世界の秘密についての物語の構成を1984年を読んでから本映画を鑑賞するといろいろと通ずるものがあって面白いと自分自身は思いました。


何より1984年とは違う結末を進撃の巨人は歩んでくれた事が自分の中では少しうれしい気持ちになり冒涜作品ではないなと自分自身では思いまして、本Postとさせていただきます。

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